高汐胤哉さん(カーペンター/オークランド)第2回「想像と創造の関係性」」
子どもの頃、勉強しろと言われたことはない。
学校に行かずにプラモを作っていても怒られなかった。
高校にも大学にも行った。でも、ただ勉強だけしていたたわけじゃない。
好きなことにも妥協しなかった。
古着。スニーカー。スケボー。スノボ。アメリカ。
大学卒業翌日には「昨日まで履いていた」エアマックスを脱ぎ捨て、地下足袋を履く毎日を選んだ。
「あること」がきっかけで29歳の時にニュージーランドへ。
生活のために働き始め、永住権を取得した。
自分のスタイルでつくる。図面は引かない。頭の中にある。
働いているというよりは、好きなことをやってお金をもらっている感覚に近い。
そんな多くの人があこがれる「好きを仕事」にしたのが今回のUpdater高汐胤哉さんだ。
その発想・行動・創造の源泉をさぐった。今回は後編をお届けする(2016年3月オークランドで対談)。
大好きなファッションに没頭した学生時代
早川 実際お父様の仕事から最初は入ったということですが、小中学校で手先が器用で絵を描くのも好きだった中で、お父様の仕事をやる他にも選択肢はいろいろあったんじゃないですか。
高汐 僕が中学高校のころはちょうどバブルの時代だったので、父はアメ車を何台も持って、「職人になれば儲かる」「好きな車にも乗れる」と言っていたんです。僕もアメ車は好きだったんですが、高校には行きたいじゃないですか。中学校を卒業すれば友達や彼女も皆高校に行くし、どうしても共学の高校に行きたくなった。「都立なら行かせてやる」と言われて、何とか高校に受かって、行かせてもらったんです。
高校を卒業するときにはもちろん、父の中では僕が職人になると思っていたんですが、僕は絶対に職人になりたくなかった。というのはその当時、何かあるたびに父の会社にアルバイトに行っていたんですよ。当時は日当1万円もらって働いていた中で、あのヘルメットをかぶって腰道具をもって年配の人と仕事をするのが絶対にいやだと思っていたんですね。
中高生のころは洋服が好きだったので、古着屋で働きたいとずっと思っていて、どうやったら古着屋で働けるかを考えた挙げ句、大学に行けばその4年間で何かできると思って、大学に行こうと決意したんです。学校の先生にも親にも無理だと言われましたし、父からは「大学に行ってどうするんだ」と木っ端微塵にされたんですが、母が僕と一緒に土下座してくれて。結局落ちて浪人までしたんですが、何とか大学に受かって、入った瞬間にはもう履歴書を書いていました。
入学式の帰りから、横浜とか町田、電車でいく沿線の店に履歴書を配りまくったんです。そしたら、オープンしたばかりの町田の古着屋でひろってもらって、そこで10カ月ほど働きました。古着の知識もあったので、ロスから届いた荷物を仕分けして値段をつけて。自分の好きなのが入っていると安く買えたので、他の同い年ぐらいの古着好きよりもいいものが着られたんです。そんなことをやっていたんですが、仕事中にレジのところでモデルガンを作っているのをオーナーに見つかって。「何をしているんだ」って言われたのに撃つ真似をして、10カ月でそこをクビになりました(笑)。
そのころスニーカーが好きでたくさん集めていたので、次はスニーカー屋で働きたいと思ったら、その古着屋のすぐ近所でよく行っていたスニーカー店が採用してくれました。アスリートフットが日本にきた1号店です。当時は古い靴しかはいていなかったんですが、新しい靴しか売っていない店だったので、そこの年配の店長に「古い靴じゃだめだ」と言われて。靴のメカニズムをいろいろ聞いたんですよ。そこで、新しい靴に魅了されて、3年間働きました。4年間大学に行っているあいだ、1年目は古着屋で、残りの3年はずっとスニーカー屋です。
そのころはアウトドアブームのはしりだったので、マウンテンバイクを買って、みんなで北海道を回ったり、四国に行ったりしましたね。テントを持って行く先々でいい人たちにたくさん会って、4年間、思い切り好きなことをしました。そこで知り合った先輩が、ナイキやリーボックで働いていて、就職のときに「卒業したらこないか」って声をかけてくれたんですよ。
すごく興味はあったんですが、ナイキジャパンに入っても、ナイキの靴をデザインできるわけじゃない。それだったら、4年間好きなことをさせてもらったし、ここらで覚悟を決めようかと、もう1回父に頭を下げて「ここで働きます」と。そのまま職人として働き始めたので、大学の卒業式も出ませんでした。昨日までエアマックスを履いていたのに、次の日から地下足袋に履き替えて、スコップで穴をほっていましたね。
早川 最初は職人になんてなりたくないと思っていたとおっしゃっていましたが、大学を卒業して覚悟を決めてからは、そういう気持ちはなかったんですか。
高汐 全然ありませんでしたね。そのときに思う存分やったので。むしろ、それはそれで終わったという感じです。
現場仕事をやり始めてからは、そこでまた偶然同じ年のいい友達と出会いました。すごく仲良いと同時に、お互いに競いあういいライバルで。彼はBMXという自転車に乗っていて僕はスケボーをしていたんですが、彼のすすめで僕もBMXを買って、自分たちでジャンプ台を作ったりしました。そんなかたちで新しいカルチャーに出会って、BMXの仲間が集まって新しいコミュニティができたんです。
昼間は仕事をして夜は自転車に乗って、冬はスノボーに行くという生活で、仕事自体にあきることもなく、面白い毎日でしたね。朝早いのがつらいとか、寒さがきついというのは当然ありましたが、ナイキジャパンに行っていればよかったと思ったことは1度もありません。
早川 お父様のもとで一緒にお仕事をされていて、そのお仕事を継ぐ必要はないと思われたのはどういう流れだったんですか。
高汐 29歳でニュージーランドにワーキングホリデーで来たんですよ。父はそれまでに半分引退をしたようなかたちだったので、父の知り合いの電気工事屋さんが声をかけてくれたところに僕が行って働いていたんです。
そんな中でも、海外に行きたいという思いがずっとあったんです。以前からアメリカには何回も旅行していました。ネイティブアメリカンのものの考え方がすごく好きだったので、居住地に行ったりもしていたんです。そんなこともあって、「外国に出たい」「英語がしゃべれたらかっこいい」と思っていたんですね。英語が話せる職人はあまりないから、そういうかたちでいつか働きたい、皆がしないようなことをしたいという思いがどこかにあったんですよね。
29歳のときに、ワーキングホリデーでニュージーランドに行ったいちばんの理由は、うちの奥さんの姉がワークビザをもってニュージーランドにいたからなんです。「スケートパークがたくさんあるからスケボーをもっておいで」と言われて1回遊びに来たら、近所にフリーのスケートパークがたくさんあって。これは楽しいなと思っているうちに、ワーキングホリデーがあるのを知って、1年間という限定で来たんです。
自転車に乗ったり、バーで酒を飲んだりしているうちにお金がなくなったので、働かざるをえなくなって。ちょうどそのころ日本人が立ち上げたばかりの建築会社で人を募集していたので、いいタイミングで入ることができました。そこで何カ月かその人と仕事したんですが、仕事自体はともかくとして、金銭的にはあまり恵まれなかったんですね。僕はその当時電気工事屋で、自分で大工仕事はしたことなかったので、いったん日本に帰って大工として働かせてもらえるように知り合いにとりはからってもらいました。いったん電気屋を休んで、大工としての修業を始めたんです。